かっぺの初代オフィスであった紅谷荘のオーナー、紅谷酒店のおばちゃんを囲んで(2003年9月16日)
私はかつて千葉大学で「起業論入門」という講義の講師の一人を務めていたことがある。
1998年(平成10年)、合資会社いなかっぺを創業した頃、大学生で起業することなどもってのほかであり、学生の本文は勉学であるという時分であったから、我々はこそこそと起業し、仕事をしていたのであるが(笑)、時代は変わり、学生ベンチャーが次々に取り沙汰されるようになると、大学も産官学連携の一つとして学生ベンチャー、起業を応援するようになった。
そんなこともあり、千葉大学を卒業した起業家の一人として私にも講師のお呼びがかかったわけである。
その講義の中で「お金」の話をしたことがある。
「お金を持っている人が偉い」「お金を払った人が偉い」といった風潮が少なからずある中で、それは正当なことなのか、ということを学生にも考えてほしくて講義を行った。
私は講義の中で「経済」の語源はなにか、と毎度決まって問うているが、学生の中で答えられる人は実は一握りである。
「経済」とは「経世済民」の漢語の略であり、すなわち「世を経(おさ)め、民を済(たす)ける」という意味である。「経済」とは世の中がみな幸せになることを追求する仕組みなのである。
ところが今の「経済人」はどうか。当時は村上ファンドやホリエモンが世の中を騒がせた時期でもあり、「お金」が優先される風潮に私は違和感を覚えていた。
まさに「経済」の大原則である「経世済民」とは逆行する考え方であるからだ。
「お金」の講義では、受講していた学生に数名前に出てもらい、まずは2人で物々交換をしてもらった。
例えば、「米」と「塩」など、古代、実際に行われていた物々交換である。経済の原始的形態、原点でもあると言えよう。
次に、1人を介し、
A:米を売りたい 野菜を買いたい
B:野菜を売りたい 塩を買いたい
C:塩を売りたい 米を買いたい
という3人での取引にしたら、どうなるか、ということをシミュレーションした。
3人が同時に集まれば、三つ巴で物々交換すれば済むが、3人が同時に集まれない、距離が離れたところに住んでいるといった場合、物々交換だけではそれぞれの要望を満たすことは難しい。
そこで出てくるものが「モノの価値の数値化」である。
つまり、米ならいくら、野菜ならいくら、塩ならいくらと共通の単位で価値を決め、それを使って取引する。これが貨幣であり、つまりは「お金」ということである。
頭がこんがらがるような話しかもしれないが、要は、お金とは多くの人で取引する状況において、「もの」や「労働」の価値を共通の単位で数値化して、代わりにやりとりするために生み出されたものである。
結果、なにが言いたいのか、というと、「もの」や「労働」にこそ価値が存在する、ということである。
「お金」は取引のために生まれた価値を表すものであり、価値そのものではないということだ。
ところが、今の世の中はどうか。
「お金を持っている人が偉い」
「お金を払った人が偉い」
という風潮がそこかしらにある。
私から言わせれば、それは空虚な考え方であり、そもそもお金を生み出すために、自然の恵みをいただき、多くの人が尊い汗を流した労働力を提供しているのだ。
それを理解しなければならない。
起業論入門でもう一つ語ったことは「社長は偉くない」ということである。
ここでも誤解している経営者が多く、「雇ってやってる」「賃金を払ってやっている」という考え方である。
これは全くの間違いであると私は思う。
社長一人ではできないことを、社員たちに「お金」を払うことでやっていただいているのだ。尊い労働力を提供していただいているのだ。そういう考え方を経営者は根底にもつべきであり、会社が雇用を生み出すというのはそういう点での社会的な使命だと考える。
経営の三要素、3つのリソースとあげられる、ヒト・モノ・カネ。
この中で最も尊いのはヒトである。
その点を世の中の経営者やリーダーたちにはしっかりと自覚してほしい、認識してほしい、と切に思う。
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